労働政策の展望
ワークライフバランスの進め方─看護師労働の事例からその進化を考える

西村 周三(医療経済研究機構所長)

1 はじめに

日本におけるワークライフバランス(WLB)に関する議論は、新たな段階に入ってきたように見える。その一つのきっかけは「地方創生」である。近年の若年労働力の不足現象の深刻さは、大都会ではまだ、パート労働と一部の職種に限られているものと思われるが、地方都市では、単にパート労働にとどまらず、基幹的な職種にも及んできている。そもそも若者がいない地域が増えているわけだから、ある種「切羽詰まった」状況での打開策の工夫が求められているといえる。

これまでは、医療・介護分野での労働力確保の問題は、地方で深刻化してきた。大都市より地方都市での高齢者の増加が相対的に著しく、それに応える労働力確保が課題であった。しかし今後は、大都市、特に首都圏で高齢者が急増し、対応のあり方が問われる。

多くの地方都市が既に人口減少を経験しつつあるので、医療・介護分野における地方都市での対応の経験が、大都市での高齢化の進展に対する医療・介護労働力の確保のための対応の参考となる。さらに医療・介護分野にとどまらず、あらゆる産業分野で、地方都市での労働力不足への対応が、日本全体でのこの課題への対応にヒントを提供するであろう。

他方で、若年人口の減少に伴って、あらゆる分野で「働き方」の見直しを考えなければ日本の将来はないという認識が、すでに各方面で議論されはじめている。「働き方」の根本的な見直しを提唱する提言として、「新しい勤勉(KINBEN)宣言」(政策シンクタンクPHP総研「新しい働き方」研究会、座長・小峰隆夫法政大学教授、2015年9月16日公表)が興味深い。

同提言の緒言で、小峰氏はいくつかの考え方を示している。筆者はこの見解を全面的に支持したい。以下では、「看護師」の労働市場で起きている事例を紹介しながら、この提言を支持する理由を述べてみたい。

議論に先立ち、一点だけ事前に留意願いたいことがある。以下で紹介する病院などの医療機関での経験は、一般企業とは異なる側面が多くある。残念ながらこの点について本稿では詳述できないが、企業の事態と根本的に異なることはあまりないと考えている。

2 小峰氏の緒言を受けて

小峰氏は「提言の発表にあたって」で、4つの視点の重要性を指摘している。これについて筆者の考え方も交えて、敷衍して要約してみたい。理解が異なることもあるので、関心のある向きは、小峰氏の元の表現にあたられることを期待する。小峰氏らは、これからの雇用のあり方について以下の4点の提言を行っている。減少する労働力をより有効に活用するための方策の提言である。

①雇用契約の「見える化」

従来から雇用契約でも、採用時などに、雇用者から被雇用者に文書などが交付されるが、その詳細を丁寧にチェックするケースはあまり多くない。しかし、たとえば「正規」「非正規」という言葉自体が曖昧で、かつその中間的な雇用契約が増えつつある現状では、この「見える化」作業はきわめて重要である。

②「多様化」という視点

「だれでも」「いつでも」「どこでも」働ける雇用環境をつくる必要があるとして、時間単位の有給休暇取得、育児・介護休暇の普及、働く者が行う保育・介護などへの税負担での優遇などが提唱される。

③「情報公開」

雇用者と被雇用者の間での適切な仕事のマッチングを図るためには、企業などによる、雇用状況の適切な情報公開が不可欠である。例として「労働時間」「離職率」「ダイバーシティ率」「女性の管理職率」「子宝率」などの情報公開の必要性が求められている。

④「新しい場を創出する」という視点

「新しい働き方」を社会全体で実現するためには、それが可能となる場所や地域を創出していくことが必要だ、という。

以上の視点にもとづいて、同報告書は7つの提言を行っている。この報告書が新しい「勤勉(KINBEN)」を提言していること自体も興味深いが、以下ではこの点には触れず、上記の小峰氏の4つの視点のうち、②、④について、看護職という職種の事例の紹介をしてみたい。①、③についても紹介したいことがあるが、紙数の関係で割愛する。

3 看護職を取り巻くワークライフバランス

看護師不足は、古くて新しい課題である。大部分の医療機関は、いつの時代も、慢性的な看護師不足に悩まされてきた。病院は、つねに看護師求人を行っているにもかかわらず、資格を有する看護師の約3分の1が職に就いていない状態が長く続いている[1-1]。この点は日本だけでなく、程度の差こそあれ、世界の主要国でかなり普遍的である。

他方で、病院は、看護師の確保のために多額の募集費用を支出している。平成23年10月に公表された(社)日本病院会による「病院の人材確保・養成に関するアンケート調査結果報告」によると、同年時点で、看護師の募集のために、調査回答病院286病院のうち166病院(約60%)が「人材斡旋業者」を利用しており、斡旋手数料は看護師1人当たりの年収相当額の20%程度を負担している。なかでも、正規看護師の確保に苦慮している病院が多い。

この調査は比較的大規模の国公立病院なども含めた調査であるが、全日本病院協会が行った民間病院を中心とした調査では、1人当たりの募集費用はさらに大きい。

それではなぜ看護師の確保が難しいのだろうか?この世界的な課題に対しては、これまで多くの説明が試みられてきた。ここでは経済学の専門用語を用いたさまざまな仮説の紹介は省略して、比較的通俗的な説明を紹介する。

この職種は、これまで大部分が女性によって担われてきた。そしてこれまで日本では(そして現在でも)、男女の、仕事と家事の明確な役割分担が現存し、男性は家計維持の基幹労働力となり、女性は家計維持の補助労働力として機能させるという通念が支配していた。そのために、女性看護師の労働供給が、配偶者の仕事の事情に左右されやすく、離職率が高いのだという説明である。

筆者はこの仮説をかなりもっともらしいものとして支持したいが、残念ながら、明確には実証されてはいない。なぜ実証が難しいか?実はこの点を語ることが、本稿の一つの重要な論点であるが、さらにいえば、この仮説にもさまざまな疑問が残る。それは次のような疑問が生じるからである。

たとえば、看護師が主たる家計の維持者であり、配偶者の方が家計補助者であるケースも少なくないことが考えられ、また、小・中学校、高等学校の女性教員、女性薬剤師などと比べても、特に看護師のみが、たとえば時間あたり賃金で見て、極端に低いわけではない。それにもかかわらず、これらの職種と比べて、なぜ看護師のみに不足が叫ばれるのかの説明はできていない。

もう一つの説明として次のような議論もなされてきた。看護師は、夜勤などが多く、勤務時間も長いからということが、その特殊性としてあげられる。しかし筆者は、この種の説明にもすくなからずの疑問を感じている。

こういったことが原因であるとすれば、なぜ、より多くの人を雇用することによって勤務時間を短くする工夫がなされないのか、また夜勤の存在が離職の大きな原因であるとすれば、夜勤のための特別の配慮がなぜなされないのかという疑問である。じっさい他にも、夜勤を必要とする職種は数多くあり、この課題は、賃金などによって調整されているからである。

なお、看護師の確保のために医療機関がさまざまな工夫をしていることは事実である。相当額の確保費用を要している現状で、病院などが手をこまねいて甘受してきたわけではない。たとえば、宮崎(2010)の分析[1-2]が示すように、やや古い時点の結果であるが、2002年から2007年にかけて、非正規就業者が増え、正規就業者が減少しているという。

このことの解釈も多様であり得るが、宮崎も認める通り、「看護師自らが勤務の多様化を求めた結果、非正規就業看護師が増加したと解釈できない訳ではない」とはいうものの、おそらく事態はもう少し複雑である。残念ながらこれまでの調査では、非正規を選ぶ看護師、あるいは当初から非正規を望んだ看護師が、どのような理由によって、それを望んだかの原因が不明である。

4 「新しい勤勉(KINBEN)宣言」を受けての問題提起

以上、看護師労働市場の現状とその研究状況の概略を紹介したが、これを踏まえて、以下では相互に関連する2つの問題提起を行いたい。一つは実践面、もう一つは調査面での問題提起である。

まず、実践面で注目したい動きである。鳥取大学医学部付属病院の看護部では、近年看護師に対して「シングルマザー(ファーザー)支援」を行い、注目されている。詳細はホームページ[2]を参照されたいが、シングルマザー、シングルファーザーを常勤職員として採用し、子育てのさまざまな援助を行っている。保育所の確保なども支援し、さらに未就学児、就学児がいる場合に応じて、それぞれきめの細かい配慮を行っている。また、病児保育の確保の支援も行うようである。

とりわけ注目したいのは「勤務時間」への配慮である。保育所などの支援それ自体は、他の職員の勤務に直接影響を与えることは少ない(もちろんそれが病院の収支に影響を与え、他の職員の待遇に影響することは無視できない)。しかし勤務時間への配慮は、他の職員に直接影響するので、これまでこういった配慮を行うことを躊躇する医療機関が圧倒的だった。この意味で鳥取大学附属病院の措置は、英断であったと判断できる。

「ママさん看護師」を支援し、保育園の送り迎えなどを配慮する医療機関は既に次第に増加している。そしてこの措置が、法で認められた措置を遙かに上回っていることが注目点である。

全体的に見て、こういった方向は、前掲「新しい勤勉(KINBEN)宣言」の②「「多様化」という視点」の導入そのものである。この動きは、育児休暇制度などを導入している多くの企業・団体で行っていることと変わらないではないかという反論があるかも知れない。しかし上記の措置は、法令の規定以上のことを行っている点に意義がある。シングルマザー・ファーザーに対する特段の配慮を行うことは、法で定められた規定ではない。しかしこういった工夫を先進的に行い、結果として募集費用の削減ができることが重要である。

「ママさん看護師」に対する配慮にしても、それが行き過ぎれば、子どものいない看護師や子育ての終了した看護師に不利に働く可能性がないわけではない。一般企業でも、こういった配慮が組織内の人間関係に悪く作用するという事例も多く聞く。育児のために残業をしない職員に対する組織内の反応は一様ではない。

しかしこういった措置を行った結果、募集費用が大幅に縮小するとすれば、それは全職員にプラスに働く。数量的な利益への影響だけでなく、組織内の人間関係にも配慮した措置が求められる。

なお紙幅の関係で詳述できないが、上記の提言の④「新しい場を創出する」という動きが看護師の世界で起きていることも付言しておく。それは病棟看護師から訪問看護師への転換を行うことによって、労働時間の柔軟性を確保していくという動きである。

最後に、各種調査の進め方についても問題提起をする。それは、これまでの求人・求職に関する調査を行う際、プライバシーに関わるがゆえに、求職者・潜在求職者の就職希望、就業動機などについての、もう少し立ち入った調査が不十分であった点である。

たとえば一時代前には、求職者がシングルマザー(ファーザー)であるかどうかを知ろうとするのは憚られた。しかしダイバーシティを認める就業を進めようとすればするほど、個人の家庭事情などの立ち入ったプライバシーを知らざるを得ない。

全般的に見て、これまでの各種労働研究において、労働「供給」の条件に関する調査が不十分であることは否めない。しかし個人のプライバシーに関わる調査を進めないことには、実態が見えてこないことがある。データの匿名性に特段の注意を払いながら、こういった努力が進むことが、ダイバーシティを認める雇用のために、求められる時代が来たと思われる。


脚注

2016年1月号(No.666) 印刷用(PDF:605KB)

2015年12月25日 掲載

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